もうミスは犯しませんと誓う人たち

上司として、ミスをした部下を叱ることがある。なぜミスをしたのか、と聞く。仕事である以上、これは聞かなければならない。

損害が軽いものであって、かつ部下の返事が「すいません、ついうっかり」であったなら「気を付けてね」でいい。

しかし、事の軽重に関わらず、そのミスが起こるべくして起こったミスであるなら対策をしなければならない。

必要なら、対策はミスをしたくてもできないところまで

機械の組み立て工場を舞台として考える。Aという部品を取り付けるべき箇所があったとして、そこにはBという部品を組み込んではならない。しかし、部品Aと部品Bが一緒に置いてあったなら、このミスはいつか必ず起こるだろう。どんなに注意深い人間でも、ふと気の緩む瞬間はある。そうした間隙に、ミスは必ず忍び込むものだ。

このミスが起こらないようにするにはどうしたらいいか。「ミスを起こさないように注意しろ!」と従業員を叱咤激励するというのは、対策としては下の下だろう。いや、これはもう、対策とすら呼べない。

部品Bを一緒に置かないようにする? それも対策の一つだ。しかし、何かの拍子に部品Bがまぎれこんでしまったら? ミスが起こってしまうかもしれない。

部品Aを組み込む箇所に部品Bが入れられないように部品としての大きさや形といった規格を変えてしまうというのはどうだろう。こうすれば、ミスを起こしたくても起こせなくなる。

ミスを完全に防止しようと思うなら、「ミスをしたくてもできない」というところまで対策をつきつめるべきだろう。どこまでやるか、というのはそのミスによってどれだけの損害がでるかという程度によるだろう。

では、冒頭の問いにもう一度戻って。

絶対にミスがないように気を付けます!

部下がミスをすれば、上司としては「なぜミスをしたのか」と問わなければならない。

しかし、この問いに変な答えを返す人たちが少なからずいる。彼らは「申し訳ございませんでした、以後絶対にミスがないように気を付けます!」と誓いを立てる。
しかし、断言するが、それではミスはなくならない。

ミスはあるものだ。それを前提にして、なぜミスが起こったのか、起こる原因があるミスだったなら、再発防止の対策をしよう、というのだが、彼は「いえ、もうミスは犯しません」と頑迷に繰り返す。

「どれだけ気をつけていても人間である以上ミスを犯すことはある」と道理を説こうとするものの、彼は「ミスを犯さないように気を付けます」という従前の主張を一歩も譲らない。
その目は真剣だ。
まるで「部下を信頼しようとしないなどと、温かい血の通う人間のすることではない」とでも言わんばかりである。まるで軍隊だ。それも、ダメな部類の。

「ミスは起こるものだ」ということを前提とするなど、必勝の信念に欠ける、というわけである。
しかし、わたしに言わせれば、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」調の理屈で、ミスの可能性を排除するなどというのは個人が趣味でやるなら大いに結構だとしても、仕事の場にそれを持ち出すのは不誠実極まりないとなるのだが、どうもまったく話が噛み合わない。
そもそもわたしは謝罪ではなくて報告を求めているのだが、そこも伝わらない。

コンティンジェンシープランの策定

コンティンジェンシープランという考え方がある。ミスや事故は起こるものだし、相手がいる勝負ならどれだけ人事を尽くしたところで相手の方が実力や運で上回っていたなら負ける。
肝心なのは、ミスをした時、事故が起こった時、負けた時にどうするかということ。予期せぬ事態に備えて、最悪の事態を想定して非常時対応をあらかじめ考えておく。事態の進展はその少し斜め上をいくだろうが、はるか上空のB29を竹槍で撃ち落とすような勝負はしなくてすむ、といいなと思う。

しかし、今回はわたしが上司で彼が部下だったのでわたしは疲れる程度で済んだのだが、これが逆の立場だったらと思うとぞっとする。インパール作戦みたいなのに連れていかれそうになったらどうするか。こういう部下がいるということは、こういう上司がいてもおかしくない。
「兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ」などと真面目な顔で言われたらどうするか、というコンティンジェンシープランを心の中に持っておいた方がいいのかもしれない。

スキーマからの理解

心理学用語でスキーマという概念がある。知識体系とでも訳すことができるもので、それまでの人生で得た経験や学んだ知識などのまとまりを示す。例えば、車を運転していたとして。

車の陰からボールが飛び出してくる → それを追いかけて出てくる子どもがいるかもしれない → 減速するか、停車する

という流れが自然に出てくるか、あるいは特に意識もせず行える。経験や学習によって、行動がある程度パターン化されることで反応が早くなったり脳の負担が軽減されることが期待できる。ただし、もちろんこれが望ましくない影響を及ぼすこともある。

東洋経済ONLINEにこんな記事があった。

筆者は以前、自動車教習所の取材をしたことがある。野球とはまったく関係のない仕事だったが「いちばん教えるのが難しいのはどんな人ですか」と聞くと、「高校の野球部だね」という答えが返ってきた。

「高校野球の選手は、”わかったか”と聞けば”はい”と大きな声で返事をする。何を聞いても”はい”だが、あとでテストしたら、何にも頭に入っていないことが多くて困るんだ」

その言葉には筆者にも心当たりがあった。日本では野球選手あがりは、一言、二言話をすればすぐにわかる。彼らは年長者から言われたことは絶対に聞き返さないし、質問も、反論もしないことが多い。

日本野球は、鉄の規律で選手を鍛え上げてきた。指揮官の采配に絶対服従で動く「駒」を作り上げ、これを動かして勝利を勝ち取る。それが日本の野球であり、野球選手だった。

高度経済成長期までは、そういう鍛えられ方をした野球選手は、企業で大歓迎された。どんな指示にも服従し、文句を言わずにやり遂げる。まさに「企業戦士」にはうってつけだったのだ。

東洋経済ONLINE メジャーの大舞台で「ゴミ」を拾った大谷翔平 より引用

「年長者のいうことには『はい』と答える」という教育をされて、実際にそれで褒められて育てばそれが成功体験になるだろう。なんにでも「はい」と言ってしまう。

それと同様に、精神論が大手を振ってまかり通る環境に長年身を置いていれば、問題に対する反応を固定化することになるだろう。要するに、精神論で片付けるべきでない問題に対しても精神論をあてがってしまう。
スキーマを突き崩すためには「この成功体験はすでに古くなっているので更新の必要がある」ということを自ら痛感していただく必要があるのだが、精神論のやっかいな部分は、例えまた失敗しても「気合いが足りなかった」で片付けられてしまう点だ。宗教で言うところの「信心が足りん」と同じなので、なかなか手強い。

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